- 2025年6月7日
「封印していた“カーテンの中の真実”を、初めて語ります。」
「開業時代の自分」
病院の中で
僕は“異物”だった
こんにちは
藤井翔悟です。
これまであまり
語ってこなかったことがあります。
いえ、本当はずっと語りたかった。
でも、それを話すことで
誰かを傷つけるかもしれない
立場を失うかもしれない。
だから、長い間
封印していました。
今日は、その封印を
初めてあなたの前で解こうと思います。
──僕が理学療法士として
最初の就職先で受けた“洗礼”。
それは、理不尽な指導や
無言の圧力という形をとって
日常の中に確かに存在していました。
患者さんのためにと信じて
必死に学んできた技術。
セミナーに出て休日返上でノートをとり
実技を何度も練習してきたあの“本当に効く技術”を
自分の手で臨床で試したいと思うのは
当たり前のことでした。
でも、その“当たり前”が
通らなかったのです。
「そんなやり方、うちの病院では許可してない」
「勝手なことをするな。ここはお前の実験場じゃない」
「患者が良くなっても、それは“正規の方法”でやれ」
何度も言われました。
上司にも、先輩にも。
でも
僕には見えていたんです。
病院の“マニュアル通りのリハビリ”では
改善しない患者さんがいること。
そして
僕が学んできた技術を使えば
その人が変わるという現実が。
現に
ある寝たきりの
高齢者の患者さん。
ベッドの上で一言も話さなかったその方が
僕のアプローチを続けて3日目で
ぽつりと声を出してくれた。
「先生、ありがとう」
その瞬間
涙が止まりませんでした。
僕のやってきたことは
間違ってなかったんだと。
──でも、その“正解”は
病院の中では“間違い”になる。
■「呼び出し」は、リハビリ室の前で
その日
僕は午前中のリハビリを終え
次の患者さんの記録を書いていました。
「藤井くん、ちょっと来てくれる?」
呼び出された先は
リハビリ室の前。
人が行き交う中で
上司が僕に言いました。
「患者に独自のやり方をしたらしいな。
誰に許可取った?そういうのは迷惑なんだよ」
周囲の目もある中での叱責。
反論は
できませんでした。
誰も守ってくれない。
誰も
本当のことを聞いてくれない。
けれど僕は
やめませんでした。
■カーテンの向こうで
僕は覚悟を決めました。
だったら
見られないところでやればいい。
ベッドサイドに行き
カーテンを閉めて。
患者さんと向き合い
じっと手を当て
必要な刺激を入れていく。
ときに筋膜のリリースを
ときにエネルギーワーク的な
深部アプローチを。
やがて患者さんの表情が変わっていく。
呼吸が深くなる。
目の力が戻る。
そして…こう言われるようになるのです。
「先生、今日もあれ、お願いできますか?」
それは
病院の中で唯一
僕にとっての救いの言葉でした。
「先生、今日の“あれ”、またやってください」
ベッドサイドのカーテンの中──
そこが、僕の“唯一の臨床”でした。
そこでは
病院が許してくれない技術が許された。
いや、正確には
誰にも見られなければバレなかっただけ。
けれど、その数分間が
患者さんにとって確かな
変化の時間だったのです。
たとえば、
全く腕が挙がらなかった人が
リリースの数分後に
「あれ?なんか動く…」と呟いた時。
足の痛みで夜も眠れないという患者さんが
「昨日ぐっすり眠れたわ」と言ってくれた時。
その“変化”は
決して自己満足ではない。
現場のセラピストである僕自身が
誰よりも実感していました。
そして
名前で呼ばれるようになります。
「今日、藤井先生は来ないの?」
「また、あれやってほしいって言っといて」
不思議なことに
僕の予約枠は
徐々に埋まり始めました。
でも、それが「病院内で評価される」
という意味ではなかった。
■“実績”が、言えない
患者さんが改善していく──
本来なら
それはセラピストの誇りになるはずです。
でも、僕は
それを表に出せなかった。
自分が「独自の技術を使っている」と気づかれれば
また呼び出される。
あの冷たい目で
あの鋭い声で叱られる。
次は人事に響くかもしれない。
配置転換
またはもっと厳しい処分──
そんな不安が
常につきまとっていました。
だから僕は
黙って記録を書いた。
病院の“やり方”に合わせて
“当たり障りのない”記録を。
本当は
患者さんの変化を
詳細に書きたかった。
でも書けなかった。
それを書いた瞬間
自分の存在が危うくなる。
それでも
僕は現場に立ち続けた。
第三幕:干される恐怖と、居場所のない病院生活
気づけば
職場での会話が減っていきました。
先輩たちは僕に距離を取り
雑談も回ってこない。
会議で発言しても
聞こえないふりをされる。
「お前、変なことしてんだろ」という空気だけが
ずっと僕を取り囲んでいた。
昼休みにも独り。
飲み会にも誘われない。
リハビリ室にいても、まるで“いない者”のような扱い。
■でも──僕は辞めなかった
なぜか?
それは、ベッドサイドで
僕を待っている患者さんがいたからです。
誰にも評価されなくてもいい。
誰にも認められなくてもいい。
でも、目の前の“この人”が
笑顔になってくれるのなら──
僕は、それだけを支えに
立っていました。
第四幕:「やっぱり、自分の信じた道を生きたい」
ある日
ひとりの患者さんが
退院間際に僕にこう言いました。
「先生、あの時、先生が来てくれなかったら
私はもう希望を失っていたと思うの。
ありがとう。先生がいてくれて、よかった」
その言葉に、僕は
涙をこらえることができませんでした。
僕は、理学療法士である前に
“人”なんだと。
この人の人生に
たしかに関わることができたと─
僕は、この道を
間違えていなかった。
■そして、決断する
「病院という枠の中では、限界がある」
僕はそう痛感しました。
だから
外に出ようと決めました。
自分の理念と技術を曲げずに
真正面から患者さんに向き合える場をつくろうと。
それが、今の
藤井翔悟の原点です。
第五幕:いま、同じ苦しみにいる“あなた”へ
もしかしたら
今これを読んでいるあなたも
かつての僕のように悩んでいるかもしれません。
• 自分の学んできた技術を使いたくても、上司が許してくれない
• 患者さんのためにやっているのに、“勝手なことをするな”と言われる
• 古い体質の中で、自分の成長を止められてしまう
そんな現場に
今もきっと数えきれないほどの
若いセラピストがいます。
でも
どうか忘れないでください。
あなたの技術が
たしかに“誰かの人生”を
変えているということを。
それを
あなた自身が知っているなら
それは“真実”です。
僕は、その真実を胸に
病院の中で戦い続けました。
3年間、22歳から25歳まで
誰にも言えない孤独と恐怖の中で。
けれど
今は胸を張って言えます。
「患者さんが、僕を生かしてくれた」と。
終章:そして、いま、僕は次の世代に伝える側に立った
こうして僕は今
自分の技術と哲学を
セミナーや講座を通して伝える側に立っています。
かつて僕が病院の中で
“封印せざるを得なかった技術”は
いまでは数万人の治療家に受け継がれています。
• 筋膜への理解
• 身体構造と感情のつながり
• 触れる技術の深さ
それはすべて
あの時の“カーテンの中”で
生まれたものでした。
だから
あなたも大丈夫。
環境に苦しんでいるのなら
そこから抜け出す道が
必ずある。
そして、あなたのその痛みは
いつか誰かを救う“物語”になります。
もし、あなたが同じような苦しみを抱えているなら──
僕は
あなたの味方です。
そしていつか
どこかのセミナーで。
「実は、あのメルマガを読んで、救われました」
と言ってくれる人に会えることを
心から願っています。
それが
あの3年間を生き抜いた
僕の報いです。
藤井翔悟
PS:
誰にも知られず京都で開業。
結果、予約が殺到した理由とは?
↓
今すぐ内容を確認する
※6月8日まで
著者

日本疼痛リハビリテーション協会 代表
腰をはじめとした身体の痛みに対して、これまでに類を見ない施術方 法を考案、それを学び実践している医療従事者は世界中で10万人を 超える。学会発表や研究にも意欲的に取り組み、その手技は改善率 の高さから業界に旋風を起こしている。芸能人やスポーツ選手からの 依頼が殺到し、その確かな結果が評判を呼んでいる。また自身が主 催するサミットには800人以上の医師や医療従事者が参加。アメリカ、 スイス、カナダからも受講生が来日するほどである。ボランティア活動にも意欲的に取り組んでおり、医療が浸透していない地域に出向き、 医師や医療機関と連携して高品質な施術を無償で提供している。海 外でも普及活動を行い、その活動が評価されオランダ政治家との対 談やアメリカの医師から推薦文をもらうほどである。日本で最も有名 な治療家であり実力者。
書籍:痛みが消える魔法の腰痛学 PHP研究所
禁じられた治療法 ギャラクシーブックス
以下にいつも使っているメールアドレスを正しくゆっくりと入力してボタンをクリックしてください。